何問正解できるかな?
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Q1 答えと解説
答えは、戦国時代
戦国時代とは?諸説ありますが、室町幕府の後継者争いに端を発した1467年(応仁元年)の「応仁の乱」から、織田信長の上洛1568年(永禄11年)の100年の間をここでは戦国時代とします。
ヒントは、むかし疾病を鎮めた神社だよ!
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Q2 答えと解説
答えは、鎮神社
奈良井の鎮守である鎮神社は、木曽義仲をかくまっていたことで有名な仲三権頭兼遠(ちゅうさんごんのかみかねとう/中原兼遠)が文寿の頃に鳥居峠に建立したとされていますが、天正年間に鳥居峠における合戦で焼失し、奈良井義高によって現在の地に移されたと伝わっています。
ヒントは、東京スカイツリーと東京タワーを合わせると何m?
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Q3 答えと解説
答えは、980m (正式には978m)
奈良井宿の中町の標高がおよそ940mです。奈良井義高の居館跡は、奈良井中町から約40m上った高台に位置しています。
現地へ足を運んでみると居館の位置は、中山道を眼下に押さえることができる場所にあります。奈良井宿を往来 する旅人や物資などが奈良井氏にとって大きな財源となっていたことが推察できます。また、居館跡は相当大規模であり、奈良井氏がこの地で大きな勢力を持った国人領主であっ たことが感じ取れます。
ヒントは、マリア地蔵のお寺だよ!
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Q4 答えと解説
答えは、大宝寺
天文年中(1532~1555年)、奈良井義高は奈良井村字豊口の天照山広伝寺を奈良井中町の現在地に移し、広伝山「大宝寺」と改称しました。義高のお墓は自らが現在の地に移した「大宝寺」にあります。
ヒントは、最終問題につきないよ!
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Q4 答えと解説
答えは、木曾義昌
義高は、天正元(1573)年の武田信玄死後も木曾氏に仕えましたが、天正12(1584)年に木曾氏を裏切り小笠原貞慶に内通していたことが発覚し、贄川(現在の贄川関所付近)に在番していたところ木曾義昌に成敗されたと伝わります。
楢川ブックレット「探訪・奈良井宿奈良井氏がいた」より、居館跡の構造からみた考察 では、カツ沢(木曾側)の防御上の機能が大きく、さらに南西には池ノ沢があり、鎮神社の北側には宮ノ沢が流れています。 これに対し、北東の側にはこのような沢がないため、奈良井氏居館跡は、鳥居峠方面、すなわち木曾氏に対する防御を前提につくられたと考えられます。居館の自然環境からみると、奈良井氏は松本の方面に親近感を抱き、木曾の側に注意を払っていたと判断できます。
何問正解できたかな?
同年代を生きた信濃の国ゆかりの戦国武将
実際に、奈良井氏居館跡へ足を運び確かめてみましょう!
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この時代の奈良井における史料は乏しく、また諸説あることなどから、旧楢川村時代に発刊した楢川村誌と楢川ブックレット「探訪・奈良井宿奈良井氏がいた」/笹本正治先生著を基に本プロジェクトにより取りまとめたものです。以上をご理解のうえ戦国時代から伝わるこの地で起きた出来事から当時に思いを巡らせていただけたら幸いです。
ならかわ桜プロジェクト