戦国時代とは
室町幕府の後継者争いに端を発した1467年(応仁元年)の「応仁の乱」から、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が倒れるまでを戦国時代とし、それ以降を安土桃山時代とする説と、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で徳川家康が豊臣家を滅ぼしたまでの約150年間とする説などがあります。この時代の奈良井における史料は乏しく、また諸説あることなどから、旧楢川村時代に発刊した楢川村誌と楢川ブックレットを基に以下にまとめました。戦国時代にこの地で起きた出来事から当時に思いを巡らせていただけたら幸いです。
奈良井治部少輔義高とは(奈良井氏の生涯)
戦国時代に、福島(木曽)を根拠地とした木曾氏と洗馬を根拠地とした三村氏の間に立って両者の間で同盟を結び、自立した国人領主として奈良井を治めました。
天文18(1549)年に武田信玄が木曽に進軍すると、木曾義昌が武田氏に従うより前に義高は武田氏に従い、木曾氏が武田氏に降伏すると武田氏によって木曾氏の家臣につかされ、武田氏と木曾氏を主人として奈良井を治めました。天正元(1573)年の武田信玄死後も木曾氏に仕えましが、天正12(1584)年に木曾氏を裏切り小笠原貞慶に内通し、これにより木曽義昌に贄川で成敗されたとされています。
奈良井氏居館跡
奈良井宿を見下ろす高台(標高978m)に、奈良井氏の居館跡があります。規模は東西35間(約63m)、南北52間(約94m)の広さがあります。居館跡の南側のカツ沢は谷が深く、南西には池ノ沢、鎮神社の北側には宮ノ沢が流れ、自然の防御機能を活かし、木曾氏に対する防御を前提に作られたと考えられます。北東には空堀を作り、武田氏に対処しようとしたことが推察できます。居館跡は、中山道を眼下に押さえることができる場所です。奈良井宿を往来する旅人や物資などが奈良井氏にとって大きな財源となっていたことが推察できます。奈良井宿からは、下町から入る下町ルート。中町から入る中町ルートの二つがメインルートとなっており、地域の住民プロジェクトにより案内サインが設置されています。※道中急な山道もございます。
城跡までおすすめルート
義高ゆかりの地
関連サイト(外部サイトリンク)
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ